奈良県生駒市上町にある真言宗の寺院「長弓寺 薬師院」

奈良時代、土地の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその養子であった長麿(ながまろ)が、若年の聖武天皇に従ってこのあたりで狩猟をした時のこと、森より一羽の怪鳥が飛び立ったのを見て、親子でこれを追っていました。この時、養子である長麿(ながまろ)が誤って父・長弓(たけゆみ)を射殺してしまいました。聖武天皇はこのことを深く哀しみ、行基に命じてこの地に小さな御堂を建て十一面観音をおまつりになって長弓(たけゆみ)菩提を弔いました。また、自らも仏教に帰依され、この寺を深く信仰なさいました。時に神亀5年(728年)、聖武天皇が28歳の頃だと伝えられています。本尊十一面観音の頂上の仏面は、聖武天皇の弓の柄で彫られているという逸話が残っています。 平安時代には、桓武天皇の頃、藤原良継が伽藍を整備し丈六(じょうろく)の阿弥陀、釈迦、四天王を安置して崇敬されました。

また、弘法大師がこの地を訪れた際も、善女龍王を感得されたと伝えられています。その後堀川天皇が、伽藍を修復し大般若経六百巻を施入して、世の平安と諸人の快楽(けらく)を祈られました。しかし、平安末期・安徳天皇の御代には火災にあったと、東大寺資材帳に記録があります。

鎌倉時代の弘安2年(1279年)には現本堂(国宝)が建立されましたが、当時は蒙古の来襲で寄進が意の如く集まらず約60年間、素屋根であったようです。現存する本堂は、この時に建立されたもので、今は檜の皮で立派に屋根が葺かれています。

その後室町時代の応仁の乱で、山名宗全の落人による重宝破壊、戦国時代には織田信長によって寺領が没収、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって寺運は衰退の一途をたどりましたが、昭和10年の大解体修理を経て今も本堂が現存しています。

また、長弓寺は大和十三仏霊場の「第九番札所」として、一周忌の守り仏、午年生まれの仏、勢至菩薩(せいしぼさつ)をお祀りしています。

長弓寺(ちょうきゅうじ)にある宝物について

棟上弘安2年(1279年)の墨書がある。新和様ともいうべき建築様式で、組物の簡素な点を彫刻入りのかえる股でおぎない、内部は虹梁、垂木を露出させて構造の美を発揮している。

扉板の左方に胎蔵界種子蔓茶羅、不動明王、二童子像、右方に金剛界種子蔓茶羅および降三世明王像の極彩 絵がある。

立像御丈四尺、木像の本尊は典雅な像で平安時代の作とされているが、貞観様式を含んだ藤原仏の説もある。